2013年11月7日

どうにもこうにも

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わたしの知人に「外食をしているときに携帯で写真をとる人を法律で罰してほしい」とせつに願っている人物がいるのだが、この写真くらいならゆるされるだろうか。いや、この「ことば」(ブログ)だって、あいかわらず、写真問題というのがあって(はい、カメラは新調しましたです)わたしなんて「ブログに空の写真をのっけるのはいかがなものか」と思っていたけれど、どうです、負けに負けている。いや、まじで、ホンマタカシ写真学校(こんなタイトルじゃなかったですね、青山ブックセンターでやっているやつ)に通ったほうがいいと思う。ま、でも、まずは、自分で工夫をしてみます◎年末に向かっているからなのか、猛烈に求心力が増しているからなのか、どうにもこうにも、ものすごい量の取材依頼、執筆の催促、その他各種依頼がやってきていて、お返事もままならなくなってきています。メールに返信できないかたがた、本当にごめんなさい。いったい全体……。アッセンブリッジポイントの移動と関係があるのだろうか?◎先日久々IH(インテグレイテッドヒーリング/上級キネシオロジー)を受けて、その体験について、少しだけ、メルマガ(今週配信の)に書いた。自分の想像を超える治癒、自分の知っている範疇を超える現実って、けっこう簡単にやってくるものなのかも。全部、自分で決めているだけで、本当は軽々超えられる、のかな。「思い」のちからはすごいですね。写真は夏の思い出。ああ、もう3世紀前くらいみたいだ! 

2013年10月31日

秋なんです

くり

自分の声を、過去や未来の自分に飛ばしてそれが届くかどうかは実験してみないとわからないが、少なくとも17歳のわたしは、その前後数年間に比べて、かなり「だいじょうぶ」だったのは確かだ。いろいろあるけどわしは元気です(要約?意訳?広島弁?)みたいな感じ。するってえと? あの声は届いていたのかもしれない、ネ。それにしても、時の流れがはやくなっているとはいえ、なになの、このはやさは! そのうちスピードというものも感じないくらいはやくなっているかもしれない! 数年前なら「えー」っていうことだって、あっという間に受け容れているかもしれない。一方で、まったく時間が動いていない世界もあるかもしれない。一方はものすごいはやさで、一方はまったく動いていないの。パラレルワールド。マーマーマガジン20号の農業特集後編、ようやく編集に戻りました。この号は、さらにやばいです。いやらしい東京日記(仮)も、編集が進行中。何でもかんでもつきつめていくと、芸術、なんですね。本を編むということに内在する、ある種の次元越え、みたいなものも体験していて、なんだか身ぶるいしている秋なんです。

2013年10月25日

名古屋で17歳の自分に声をかけてみた

朝日2

(つづき)甘い感じに守られている感覚というのは、こう、けっして田舎だということではない、都会なのだけれど、名古屋特有の、人と人との距離感があって、それが、こう、重なっている度合いが独特というか、ある意味、家っぽいというか、悪い意味ではなくてべたっとしている部分がまちがいなくあって、それに、意識的か無意識的かに関わらず、おそらく、その部分に、名古屋の人は思っているよりも、守られているのではないか? ということだ(何書いてんだかわけわかんないですね、すみません)。トークショウの前日、少しだけ時間があったので、思春期のころ過ごした実家の近くまで行った。駅から中学校への道のり、喫茶店、酒屋さん、高見ストア、急な坂、坂を振り返ればテレビ塔、見慣れた大邸宅たちを、興味深く、見た。坂道だらけの実家のあった場所には、見慣れないマンションが立っていた。突然、わたしは幾度となく行き来した坂道を振り返って、17歳の自分に、「だいじょうぶだよ」といってみた。その声が、17歳のころの自分にしっかり届くように、短い時間だったが相当集中して声を届けた。その声があったから、今、わたしはこうして生きているのか、名古屋の人々が編み続けているそこはかとなく甘い部分が守ってくれたのかは、わからない。坂道では、もう亡くなってしまった中学時代の同級生の秀才I君と、池下の交差点で一度だけすれ違ったことのある高校時代の同級生M君のことを思い出していた。M君は、大学に入ってからバイク事故で亡くなったと人づてに聞いた。I君は、「服部は、もう、なんとかやっていけそうだな」といった。M君は、高校生のころのように、少しだけ笑ったまま、だまっていた。時間は同時、の扉が、名古屋の夕暮れの坂道では、ほんの少し、開いていたようだった。

2013年10月23日

名古屋へ行ったあと、先ほど脱稿した

空

今朝がた、『あたらしい東京日記』の続編をおよそ脱稿した。エッセイも含めたら、26、7万字はある。にっ、にじゅうろく、ないしはななまんじ。担当編集者の小宮さんは、いったいどうやってあの本を編集するおつもりなのか? 文字をちいさくするのか? 段組を増やすのか? もしくはばっさり削るのか。いや、それしか方法はない。どの部分が残されるか、それは読んでのおたのしみ。2012年春から2013年春まである。およそ毎日書いた。書きに書いた。日記を書くという行為はほとんど中毒みたいになるもので、書いていないと、だいたい朝も昼も夜も、ベッドに入ってからだって、日記で何書くかばかり考えるようになって、手だって震えてくる(うそです。でも中毒になるのは本当)。それにしても名古屋は活気があった! 全体として甘かった。甘いといっても、なんというか、名古屋特有の甘辛い味そのまま、いい感じのべったり甘えた安心感が、街にそこはかとなく漂っていて、その甘さに、名古屋の人たちがしっかり守られていた。素直だった。名古屋の人たちの誰もが素直でまっすぐだった。シンプルだと感じた。水もよかった。テレビ塔は昭和だった。大須はカオスだった。YURIはまだ角にあった。本山の坂道はあいかわらず横浜みたいだった。コンサバかと思いきや、栄の街をスケボー少年が、ずるずるごーごーと、大人数でスケボーを乗り回していて、安心もした。名古屋巻きは見なかった。トークショウのお客さまがたはたいへん陽気だった。全体として、守られている、という感じがした(つづく)。

2013年10月10日

あたらしいメンズ

フェス2

野外上映会で楽しませてくださった有坂さんとは、この日のフェスではじめてお会いした。上映会がはじまる前、福太郎さんとわたしは、有坂さんが番をしていたちいさな焚き火の前に座らせていただき、有坂さんから、19歳まで『グーニーズ』と『E.T.』しか見たことがなかった話、新宿のレンタルビデオやさんでの痛快なエピソード、など時間をかけてうかがう機会にめぐまれた。有坂さんの、わけへだてない、実に調和的な、映画へのまなざしが、夜になって冷えてきたからだに沁みた。「こんなにオレは知っている」とか「難解な映画についてのうんちくあれこれ」とか、そういう映画論、的なものから、完全に解き放たれたまなざしに、ヤられた。やさしいのです。映画に対しても人に対しても。「オレオレ」じゃないの。聴けば、有坂さんは、19歳までサッカー少年で、Jリーグのテストも受けたほどの腕前とか。偶然だけれど、一緒に聴いていた福太郎さんも元ラガーマンだけれど絵本好き。しかも高校時代は、激しいラグビーの練習が終ったあと(彼もまたとても強いチームにいた)、かばんを置くやいなや本屋さんにかけていき、月刊カドカワに投稿した詩が掲載されていないかチェックしにいっていたポエマーでもあった。体育会系なんだけれど、文化系、な人たち。そうそう、この日、似顔絵を描いてもらった男性もやはり体育会→芸術大学進学、の人だった。ハイブリッドなメンズたちには、大人になんかわからない魅力がまだまだ隠れている。今までとはちがうやりかたで、あたらしい世界をひらいていこうとしている。女性性と男性性は、わたしたちが思っているよりも融合しようとしている。「焚き火の前にはキアヌ・リーブスとリバー・フェニックス(男ふたり)」に、混ぜてもらって気持ちが舞いあがったからではない。嬬恋の山のなかで、あたらしいときがひらきはじめているのをわたしは見た。あたらしい男性たちが、あたらしい女性たち同様、その鍵を、大きくてやわらかい手のなかに、しっかりとにぎっている。

2013年10月6日

山のなかで聴いた

フェス1

先週の週末は、軽井沢のちょっと先、嬬恋というところにいて、湖と山と野っ原と雲と神秘的な光と、秋というよりは冬みたいな透明な空気の中で、ただ、過ごした。日中はサングラスをしていないと目を細めてしまうほど明るく、一方陽がかげればダウンジャケットを羽織りたくなるほど寒い。URの10周年記念の野外フェスということで、トークショウをさせていただいたり(くわしくは今週配信のメルマガへ)、古い友だちやあたらしい友だちと語ったり、熱いお茶を飲んだり、パンを火であぶって食べたりしてたのしんだ。夜は、キノ・イグルー有坂さんの上映会が秀逸で、Sigur Rosのこの映像と音楽を、キャンファイヤーを背に、大勢のひとたちと観たことは、中学生のときに行った修学旅行の夜のできごとくらいのパンチ力で、記憶に深く刻まれた。今、AYAちゃんとやっているmmaというバンドで、わたしたちがなにをどうしていったらいいのか、山のなかで聴いたこの曲が教えてくれた。

2013年9月26日

最近の関心

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© Fukutaro Hattori

塩浴◎風立ちぬについて、とびきりおもしろいという人とそうでない人がいて、どちらの見方もいいと思うのだけれど、どういう心象状態みたいなものが、それに作用するのかについて◎あちこちで見られる価値観の反転◎断食と部屋を片づけたい衝動との関連性◎書いている本のこと◎これから書く本のこと◎今日の夕ご飯を何にするか(たぶん玄米をつかってリゾットをつくる。プチトマトの水煮缶、実家のバジル、大豆からできたチーズをつかって。里芋も蒸したあとにオリーブオイルで焼く。しかし大豆ミートをフライにして食べてみたい欲求もある)◎明日からのフェスにもっていくもののこと◎mmaのライブをどうとりおこなうかについて抜本的に◎ルドルフ・シュタイナー◎コズミックワンダーのNYコレクションについて◎意識が世界にどう作用するのか◎フェスで着るものについて(10℃の場所で人間はいったい何を着ているのか)◎する→あるのではなくて、ある→もつ→する、というこの宇宙のうるわしい本当の順序について◎シリウス星人の類似性◎来年をどうすごすか◎書く場所を整えることについて◎憂いを5秒後に好機に変えること◎リバー・フェニックス再び◎スタンディングのサーフィンまたはボディボードをするかどうか◎クリーニングの効果について◎引き寄せの法則◎たのしみなことあれこれ……って、ひま人ですね。写真は、歯痛が酷かった夜に、応急処置として、絹のレギンスでつっている様子。絹のレギンスであごをつるのは、効果てきめん。はっ、わたしのしている☆のペンダントは、裏原のマジックシアターというちいさなお店で見つけました。

2013年9月20日

ふしぎなはなし3

せっちゃん3

だからなに、といわれたらそれまでだけれど、ものすごい勢いで、何をしたらいいかわからないからっぽというものがあると、すごいものがどしどしと入ってくる、というような話。やー、ものすごい感激した。あんまり気分がよかったので、そのまま福太郎さんは、せっちゃんのアシスタントをキメにキメ、「ヘイ、タクスィ!」といってタクシーをとめてみたり、荷物をもちまくってイイ気分になったり、すごくたのしかったみたい。あんまりおもしろいので、そのまま3人で、超多忙なせっちゃんを誘って、夕ご飯を食べようと、夜の青山に消えたのでした。もう一度整理すると、1自分たちに何もすることがない/何をしたらいいかわからない 2せっちゃんがなぜか道をまちがえた 3そのまま流れにのった 4想像もしないところへいった 5いちばん知りたい情報や知恵がてにはいった。おまけ/同じ媒体の仕事を同時にしてて、同時に会った。まあ、引き寄せの法則ってことなのかナ。むー、なんだか人生そのものみたいでしょう!(どう?)つまるところ、何にもない自分ってのもすてがたいよ、人生ってすてたものじゃないよってことがいいたかったのでした。せっちゃん、みんな、本当にありがとう!(おしまい/ウインク)

2013年9月20日

ふしぎなはなし2

せっちゃん1

「せっちゃん!」とさけんだら、何でも、せっちゃんも、乗っていた車がまちがえて、その場(わたしたちの目の前)に降りたらしい。で、そのあと靴のリースをするのだけれど、それがまたわたしといっしょにいた福太郎さんが行きたい場所で、じゃあ、一緒に行こうということになる。さらにそのリースというのは、わたしがその直前まで取材を受けていた媒体と同じで、「えー」なんていっているうちに、リースは終わり、でも、何の予定もないわたしたちは、あいかわらず、どうしたらいいかわからない。夕食も何を食べたらいいか、せっちゃんに質問するしまつ(ひどい)。「せっちゃんはこれからどうするの?」と聞いたら、「2つめのリース先へ行く」という。「仕事てつだうからさ、荷物もつからさ、ついていっていい?」ときいたらこころよくいいよといってくださって、わたしたちはにわか、轟木節子アシスタントになり(イエーイ)、2件目のリースについていったのだった。それが、表参道にあるかぐれだったのでR。いやいやいやいや、ふしぎな話はこれから。この「かぐれ」に、なんと、そのとき、わたしたちがいちばんしりたかった情報をもっている人たちが、その情報先の打ち合わせをしているところで! 打ち合わせをしていたのは、かぐれのあっちゃん、けんくん、ブックピックかわかみさんで! そこで何もかもがわかるという、ほんとうにふしぎな体験をしたのだった(つづく)

2013年9月12日

ふしぎなはなし

せっちゃん2

涼しくなってから最高に気持ちがよいというのに(夜なんかとくに、ね)、からだがほっとしたのか、どうにもこうにも調子が出ない。手帖の脱稿とb&sの校了を経て、まあ、気が抜けたといえばそれまでなのだけれど、かれこれ1週間だか10日だか、自分自身がとにかくぱっとしない。冷えとりでいえば、夏の冷えの毒出し中なのだと思うし、こころのほうがぱっとしないのだって毒出しで、ただ粛々と、毒を出していくだけなのだけれど、昨日の朝、突然、少し晴れたような感じがあった。それでも夕方我が社の定時17時に仕事をおえて、外に出てもなんだかエンジンもかからんし、何をどうしたいという欲望もない、夕食に何を食べたいかも決まらない、なんて、ぶらぶら青山をあるいていたら、目の前に現れたのが、スタイリストのせっちゃんこと轟木節子さんだった(つづく)

2013年9月6日

詩◎清潔でいたい不潔でもいたい

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清潔でいたい
不潔でもいたい
高潔でありたい
あばずれでもいたい
恵みをもたらしたい
たまには恵んでももらいたい
本を読みたい
本を書く側にもまわりたい
音楽を聴きたい
音楽のない世界にもいたい
健康法を試したい
いかなる健康法ともかかわらず そのまま死んでもいってみたい
ひとりの人を愛したい
大勢の人だって愛したい
でも 愛だの許しだの考えず
ただ森の奥にそっとひそんで
木と鳥だけを相手に思索にふけってみたい夜もある

2013年8月28日

これからの予定です

写真[7]
© Fukutaro Hattori

8/30(金)朝日カルチャーセンター新宿校 自由な自分になるレッスン2回(満員御礼)◎9/14(土)16時〜みれいの部屋 in 吉祥寺トークショーとサイン会@吉祥寺パルコブックセンター(受付はこれからです)◎9/20(金)朝日カルチャーセンター新宿校 自由な自分になるレッスン3回(満員御礼)◎9/26(木)『あたらしい自分になる手帖2014』(アスペクト)『マーマーマガジン 別冊body&soul 冷えとりとファッション』(エムエム・ブックス)発売!!(2冊とも、とてもよいできです!どうぞどうぞおたのしみに!)◎9/28(土)、29(日)urban research doors TINY GARDEN FESTIVAL @無印良品嬬恋キャンプ場 ワークショップ、ポエトリーリーディングを予定しています(受付はこれからです)◎10/3(木)19時30分〜『あたらしい自分になる手帖2014』(アスペクト)サイン会@青山ブックセンター本店(受付はこれからです)◎そのほか、10月以降に、マーマーマガジン主催でスペシャルゲストの講演会のほか、名古屋、横浜などで、トークショウ、お話会、ポエトリーリーディングなどが行われる予定です。年内に、ライブもできたらと思っていますが、どうかな◎詳細決定したらまた掲載します!

2013年8月22日

更新がままならない問題2013晩夏

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このページをはじめてもう何週間も経つのに、ぜんぜん、更新ができない。実は写真のアップに困っていて、まわりの人が撮ってくれた写真でお茶を濁しているのだけれど、このページをデザインしてくださった斎藤寿大さん曰く、「すごく月並みな話ですが、服部さんが気軽に撮った写真を見たいなと思います」。むー。そりゃそうだ。あれはかれこれ6年前。『murmur magazine』の創刊準備号をつくっていたときも当時のAD峯崎ノリテルさんが、「服部さん、写真撮ってください」といってくださって、本来ならば、マーマーにもっと編集者が撮影した写真が掲載されるハズだった。でも載ってない。なぜ? はい。撮っていないからです。今回、峯崎さんが勧めてくださったGRを数年ぶりに取り出してみたけれど、なんだか写真機がもったりした波動になっており、どうにもこうにもノってこない。ということでこの写真は、20歳代後半に肺結核になっていた頃撮影したもの。母は、「結核のこと口外しないでッ」と、昔の人みたいに止めるけれど、菜穂子@風立ちぬもカミングアウトしているよ。って、そうそう、「どうだっていいや」という心境になったって最新号のマーマーで書いたのだけれど、いってみたら、あれもまた肺と大腸に対応するこころの冷え=強欲の反転バージョンなのかも。福岡正信さんも、「この世にはなにもない」と悟った朝は、急性肺炎の直後であった。つまるところ、からだ=思考の癖の世界に生きているってことかしら。あたらしいカメラ、今週中には、入手します。

2013年8月7日

ちがうめんもみたいよね

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先日、ある人から、本当にみれいさんはいろいろな健康法を試されますよね、というようなことをいわれて、どう返答したらよいか困った、ということがあった。編集者という職業を続けてきたせいか、「7」という誕生数のせいか、はたまた、肺と大腸が悪い者の性(さが)、強欲というやつのせいなのか。若いころから、たとえばファッションひとつとっても、「この路線が好き」と定まらない。ギャルソンひと筋とか、リネン大好き、みたいな自分にはならない(服って特に、ひとつの路線ができあがる人と、ふらふらと気の多い人とにわかれると思う。そう思いませんか?)。というわけで、このホームページは、そんな、自分のちがうめん=文体を見てみたいという欲求からはじまった。だって、流転しているのですもの。わたしだって、自然のいちぶなんですもの。あたらしい筋肉だってつけてもみたい。わたしは、あたらしいものが好き。実験、新鮮さ、躍動、変わっていくこと、が好きなのだ。写真は、今から約20年前のわたし。まるで昨日のことみたいだし、320年くらい前のことのようでもある。

2013年7月31日

あたらしいことへの、ちいさな挑戦

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© Ittetsu Matsuoka

文章を書いていく中で、何でもいいけれど、こう、厳しいひとこととか、ちょっと誰かや何かを批判しているような内容なんかが入ると、目がはっと覚めるようで、しかも、書いている人が一瞬正統化されるようでもあるし(指摘が鋭ければ鋭いほど)、またいってみたら、「あれはどうなの」「これはいかがなものか」などと、大勢の人の前でいうっていうのは、さぞかしすっきりすることであろうし、ええ、ええ、やってみたいです、でも、わたしは、できるかぎりやらないように決めている。批判めいたことをぴしゃりと入れたが最後、「これまで」の世の中にあった、ある種の文章たちと同じになってしまう。それらしく、見えるのだけれど、ネ。肯定だけで書くのはむずかしいのだ。って、この文章だって結局同じじゃん、っていわれたらそうかもしれないけれど。いずれにせよ、わたしは文章を書くとき、そのことに、こころを砕いて、とても注意をしている。あまりに地味なとりくみではあるのだけれど、わたしは、そういう方向でのあたらしいことに挑戦をしたいと考えている。