2020年12月14日

人は何によって生きるのか

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約10年ぶりに『ミツバチの羽音と地球の回転』(監督:鎌仲ひとみ)を観た。記憶違いでなければ、2011年の東日本大震災の直後にこの映画を東京で観ている。映画は、山口県上関町田ノ浦に建設予定の原発に反対する、田ノ浦の対岸に住む祝島の人々を追う。祝島のおばちゃんや漁師たちは、もう28年も原発に反対している(2010年時点で28年なのだから、もう38年になっている)。福島でのあのような事故を経て、なお、「直せないものはつくりません」とならないのは、「直せないものをつくったら、地球や人間がどういうことになるのか」という想像力さえもつことがかなわず、「金だけ、今だけ、自分だけ」という恥ずかしい人間が大多数ということだろうが、それも人間の性(さが)なのか。人類のカルマか。

前回見たときは、反対派の通帳に、突然5億4千万円ものお金が勝手に振り込まれたり、に、衝撃を受けたが、今回は、特に、豊かな海と自然を残したいという、漁師さんや漁(第一次産業)に関わるおばちゃんたちと、電力会社の人たちが、海上で、海を隔てて意見を言い合う場面が印象に残った。漁師やおばちゃんたちの「ことば」は、誰が聞いても本気で本心で実がある「ことば」だ。それに対して、電力会社の人たちの「ことば」は、のけぞるほどに、うわっつらで表面的で空虚に、わたしの耳には聞こえた。正直、ロボットみたいに見えた。生きた人間と、操られ人形が話しているみたい。この対比がただただすごい。カメラはそのままをうつしていた。漁師やおばちゃんたちは、第一次産業でやっていこうといっている。海を守ろうといっている(世界的にも類をみない生物多様性のホットスポットでもある)。自然エネルギーでやっていこうといっている。一方、電力会社側は、もう島は第一産業では経済力がもたない、自分たちを守るために(つまりは経済のために)原発が必要だと説く。「海は絶対に壊れない」という。「絶対に」……???(映画は森林の伐採がはじまった時点で、すでに海の生態系が変わってきたことも、真摯に伝えている)。両者のいちばんのシンプルな違いは、漁師や海にかかわるおばちゃんたちは、この反対運動を手弁当で行っている。誰からもお金をもらわず行っている。それに対して、電力会社の人はサラリーマンであるという点だと思った。漁師やおばちゃんたちは、お金をもらわなくても反対運動をしている。電力会社の人は、お金をもらわなくても、建設しようとするのだろうか? 果たして?
映画では、さらにスウェーデンで、脱石油、脱原発で、完全にエネルギーの自給に成功した町を取り上げる。循環型でサステナブルなエネルギーで、充分、暮らしはまかなえるのだ。「第3の解答」は、世界中にあまた表出している。しかもスウェーデンのその町の政治は、ボランティアで行われているというのが印象的だった。また「ひとりひとりが責任をもつ」ということに尽きると、その改革に携わった人がいっていたのも、こころに刻まれた。
わたしは、海の上で、マイクでやりとりをする、漁師さんおばちゃんらと、電力会社の人たちを見て、ほんとうに、世界中のあちこちでこんなふうに二項対立をさせられて、それぞれの「正しい」によって翻弄されている人間の姿をしみじみ思った。島は、反対派と賛成派で今も分断され、家族のなかでも仲違いがあるという。これって、誰かの悪巧みなの?

人は何で生きるのか? このような二項対立を生んでいるのは、都市化がすすむほどに人を滅ぼしていく都市のシステムと、それを支える自分たちだろうと思う。万が一、誰かにあやつられて、洗脳されてこうなっていたのだとしても、この行為を実際にしているのは自分たちだ。わたしたちは渡ろうとしている橋を壊しながら渡っている。ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読了したばかりだということもあるけれど、なにせ、上のいうことをただ鵜呑みにして、意見もいわず、従順に従う、あるいは、思考停止しているという人間、つまりは、責任をおわないという態度、もっといえば、それをしない怠惰な態度、起こることの本質を見ることなく、疑うことをせず恐怖心あおられてそれを鵜呑みにするような態度、これが、なによりの元凶でもあると思えてくる。
この元凶が放りっぱなしになっていることの果てしない闇を思い、その闇を生んだ闇を思い、闇の中を闇ともおもわず能天気に生きる人間の闇を思う。こんなこと考えていると行き場のない思いで自家中毒になって死んでしまいそうだけれど、それでも、まだ選択肢はあって、まだ自分たちは、世界で起こっていることを知り、そして自分たちがしたい暮らしを選べるし、行動できる。実際、この春、経済活動がとまったら、自然はうつくしくなったのだ。これが本当に自分たちに残された希望だ。実際10年前にこの映画を一緒に観た友人・知人たちは、全員、東京を離れ、畑や田んぼをつくるようになった。自分のことは自分でやる方向にシフトしたのである。何をもって豊かさとするのか。何をもって生きているのか。少し考えれば誰にでもわかることだ。自分のいのちを誰かまかせになんかしないことだ。自分頼りで生きることだ。神がこの世界にいるとして、神はすべてをお見通しだろうともこの映画を観て思った。