2016年5月24日

詩についてかんがえてばかりいる

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2日と半分のフェスが終って、何をしていたかと思い出すと、詩についてかんがえてばかりいたと思う。だいたいフェスの2日前に、京都ホホホ座の山下賢二さんからご自身の詩集『シティボーイは田舎モノの合言葉』が送られてきたのがはじまりだった。この詩集をもってわたしはフェスにのぞんだ。フェスには、なんと山下さんご本人もいらして(びっくりした)、山下さんをつかまえては、「詩! 詩! 詩!」と詩まくりにし、詩の朗読を我々は(我々は?)どうやっていったらいいのかという論議をフリースタイルバトルなみのヴァイブスでまくしたて、福太郎さんに「みれいさん、暑苦しい」と真顔でいわれさらに火がつき、ホホホ座のブースに本を買うふりをしてはまた訪れ、詩の話をし、詩の朗読について語り合い、詩集を買う、などしたのだった。日曜日には詩を聴衆の面前で朗読した。前日のIrish Musicのライブ(今年はJhon Jhon Festival)を聴いてそれを詩にするというスタイルをとった。Irish Musicを聴かないとつくることができない詩。去年つくった詩よりも、直前につくった半ば即興のこの詩のほうがウケた。なぜかしら。詩情はフリースタイルバトルかツイッターうもれてしまったなどと山下さんには嘯いたが、否、嘘だ、詩情はそこかしこに確かにある。詩が必要とされる時代は、決していい時代じゃないのかもしれないけれど、でも、時代がどうとかはどうでもいいんだ、詩は根源的な存在であるにちがいなく、この根源的なヴァイブス? 否、根源的な純な衝動に、わたしたちは、いよいよ手をのばし、生々しく素手で掴もうとしている。芸能ではない詩に。

 

 

〈セント・ルイス・ブルース〉を演ってくれ

死んだら ぼくのために。

すばらしい 音楽が 欲しいんだ

あそこ 空の高みでは。

 

〈セント・ジェームス インファーマリ〉を歌ってくれ

ぼくを 埋めるときには―—

何故って そこいらで ぼくみたいに いい奴が

置いてきぼりに されることはない。

 

 

「鎮魂歌へのリクエスト」

『ラングストン・ヒューズ詩集』

(ラングストン・ヒューズ=著 木島始=訳 思潮社=刊)

より抜粋