2015年8月7日

わたしは岐阜をしらない

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わたしの両親はふたりとも岐阜出身で、ちいさいころから全国各地どこへ転勤をしたとて、家の中では堂々と岐阜弁がうち響いていた。そのせいでわたしも、外では広島弁なのに、家の中では岐阜弁(正式にはわたしが話しているのは美濃弁らしい)を話すような、言語に関してはなかなか器用な子どもでした◎わたしは岐阜で育っていない。この春美濃に帰郷し、春にひとりで、岐阜の街を何回かにわけてぶらぶら歩いた。日本生まれだが日本で育ったことのない日系ブラジル人2世なる人物が日本に戻って暮らしはじめた、のを、8倍くらいに薄めると今のわたしになるのか。右も左もわからない街に暮らすことじたい、25年ぶりのことで、ただただふしぎな感じがする。血は岐阜なのに、わたしは岐阜を知らない。人と人との距離感、話す内容の密度、長さ、何をたいせつに生きるか、暮らすか、喫茶店の文化、出汁の香り、色濃く残る家父長制度、湿度、水、空気、なにもかもがあたらしい。都度かいまみる岐阜の香りに目を見開き続けている。すべてがおとなしく、しかし激しくもある。地味なようだが派手でもある。目立たぬようで鋭くもある。きまじめな風情なのに笑いもある◎長良橋をひとり渡れば、亡くなったばかりの母の思い出と対峙することとなり、目に涙をいっぱい溜めて、一歩一歩の歩みの震動が、頬に涙をこぼれさせる。母のいない岐阜で、まったくあたらしい岐阜と岐阜で生きた母に思いを馳せている。「しらない」からはじまる岐阜をわたしは今、からだいっぱい味わっている。